2008年04月01日
ノーベルのこと
ノーベルも結構大変な人生だったんですね。
生まれたとき、父親のイマニュエル・ノーベルは破産したばかりだったが、家族と別れてロシアで興した事業が成功。1842年には父親の住むサンクトペテルブルグに向かい、のちに親の事業を手伝う。ここでの主な仕事はロシア軍を相手にした機雷の製造・設置だった。やがてクリミア戦争が起きると、軍から大量の注文があり、大儲けをするが、1853年、戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため、事業はたちまち逼迫。父は1859年に再び破産する。
ノーベル本人は、1855年にニトログリセリンのことを知る。しかし、この爆薬は、狙って爆発させることが難しいという欠点があり、起爆装置を開発。1862年にサンクトペテルブルグで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得る。1864年には爆発事故で弟エミール・ノーベルと助手が死亡。ノーベル本人は怪我を負う。この事故に関してはノーベル本人は一切語っていないが、父イマニュエルによれば、ニトログリセリン製造ではなく、グリセリン精製中に起きたものだという。
1865年、ニトログリセリンの製造業を開始する。1866年、ダイナマイトを発明する。1867年、ダイナマイトに関する特許を取得する。1871年、ダイナマイト生産を開始する。
1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を出し、ベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかし、ベルタは既にアーサー・フォン・ズットナーという婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。またアーサー・フォン・ズットナーは著名な数学者であり、このためノーベルは数学賞を設置しなかったという俗説がある。
同年、当時20歳のゾフィー・ヘスと出会い、交流が始まる。ゾフィーには218通の手紙を残した。しかし、1891年、ゾフィーが他の男の子供を宿していることが分かると、2人の関係は急速に冷えた。ノーベルの死後、ゾフィーはこれらの手紙をノーベル財団に高額で買い取らせようとして成功したため、すべてが残っており、また、ノーベル財団により公開もされている。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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